私たちが普段目にしている世界は、実は真実ではないのかもしれない。
最近、強くそう思う。
別にマトリックス的な話をしたいわけではなく、人によって「見えている世界」が違うということだ。
子どもの頃は、みんな見えている世界が同じだと思っていた。
同じ経験をしたら同じように感じるし、同じように感じていない人がいたら「あいつはおかしい」とすら思っていた。
しかし、それは間違いだったことに気づいた。
人によって感じ方が違うし、見えている世界があまりにも違う。同じ世界を生きているはずなのに理解し合えない。
専門用語を使うと「認知バイアス」ということになるのだろう。私たちは、主観によってねじ曲げられた世界を生きている。
ここをスタート地点にしないと、他者との違いを認められないし、歩み寄れないのではないかと感じ始めた。
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先日、会社のミーティングに参加した。先日出展した展示会の反省会を実施したのである。
ブース出展したのは国内最大級の農業・園芸の展示会で、3日間の開催で約3万6千人の来場者とのことだった。すさまじい集客力である。
反省会で多く出た意見は「事前に展示する商品の情報を教えてほしい」というものだった。
展示会では、営業マンが得意先をブースに連れてきて自社商品の案内をする。
その際に、どんな商品が展示されているか分からないと、得意先にスムーズに商品案内できない。とくに新商品に関しては、情報がないと案内することすらできないという話であった。
言われてみたら、その通りだ。いくら営業マンが話すプロだとしても、知らないことは話せない。営業マンからすると、売上アップにつながる重要な商談の場になるため、切実な要望だ。
実は、これは昨年も出ていた意見だった。さすがに2年連続で出ている意見なのだから、重く受け止めて改善するべきだろう。
しかし、新商品開発を担当していた人は、全く気にしている様子はない。
本来であれば、開発担当が事前に営業マンに情報共有をしておけば、今回の事態を避けられた。それなのに、自分に対して言われているという認識すらしていない雰囲気だった。
私は向かい側に座り、その様子を見ていたのだが、頭のなかにクエスチョンマークが浮かんできた。
「えっ、あなたに対して出ている意見なのに、なんでそんなに平然としているの?」と。
そのとき私は、改めて感じた。
「あー、見えている世界が違うのだ」と。
私が逆の立場だったら「ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした!次回から事前に展示商品の情報共有ミーティングをセッティングします!」と食い気味に謝罪していたと思う。
正直、私には商品開発の担当者がどのようなことを考えていたのかまでは分からない。ただ、見えていた世界は違ったのではないかと思う。
おそらく彼のなかでは「開発がギリギリで共有する余裕なんてなかったんだよ。仕方ないじゃないか」という気持ちが前提にあったのだろう。そのため、自分に改善点があるとは考えなかったのかもしれない。
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ひと昔前の私であれば「いや、意見が出てるのにノーリアクションとかありえないだろ。なにか改善案を提示しろよ」と思っていたはずだ。
しかし、そもそも見えている世界が違うとしたら、同じ状況に立たされても受け取り方が違う。
それに相手にも事情があるのかもしれないのだから、一方的に相手が間違っていると非難するのは違う気がする。
きっと私たちにできることは「この人には、どういう世界が見えているのだろう」と理解しようとすることなのだと思う。
人間、理解できない対象にはネガティブな感情を抱き、攻撃的になる。しかし、理解ができれば歩み寄れる可能性が出てくる。
完全に受け入れる必要もないし、認めたり同意したりする必要もない。
理解に努めた結果、歩み寄れないとしても、相手を非難せず適切な距離感を保つ。それだけで、世界はだいぶ平和になるのではないだろうか。
もちろん、他者を完全に理解することはできない。ほかの人の頭のなかを覗くことはできないし、テレパシーも使えないからだ。
でも、言葉やコミュニケーションを通じて理解を深めることはできる。どこまでいっても100%の理解にはならなくても、3%の理解だったものが10%の理解になっただけで、3倍以上も相手を知れたことになる。
たとえ嫌いな相手だったとしても「なぜ、このような言動を取るのか」「どんな世界が見えているのか」「どんな欲求を優先した言動なのか」などを考えていくと向き合い方が変わる。
相手に対する解像度が低い状態だと、ただ「嫌い」となってしまう。その状態で改善策を出すのは難しい。
しかし、解像度が上がると対処法が思い浮かぶようになる。
「◯◯さんは、リスクに慎重なタイプで経費を細かく指摘してくる。金額の妥当性をきちんと伝えるようにしよう」
「△△さんは、大雑把で適当なところがある。ヌケモレが出るかもしれないから、事前に確認しておこう」
相手を知ることで、最適な行動を取りやすくなる。それに、理解することで歩み寄るべき人かも判断がつく。
「◯◯さんは、誤解されやすいけど悪い人ではなさそう」
「△△さんは、あきらかに自分ファーストの言動だから距離を置こう」
このように距離感の判断もしやすくなる。あきらかに自分と合わないと判断できれば、距離を置けばいい。不要な消耗を避けられる。
サラリーマンの場合、距離を置きたくても置けない場合があると思う。私もサラリーマンなので、その気持はよく分かる。
それでも、相手に対する理解を深めることで、地雷を踏む確率は下げられるし、対処の幅も広がる。相談相手も選びやすくなるだろう。
組織にいたとしても、働きやすさは大きく変わるはずだ。実際に、私がそれを実感している。
理解できない対象を知ろうとするのはストレスがかかる。嫌いな相手であればなおさらだ。嫌いな食べ物を口に放り込まれて、味の実況中継をするような気分になるだろう。最悪だ。
でも、一度その苦痛を乗り越えると「なんだ、こういうことか」と視界がパッと開ける。
私たちは、それぞれ見えている世界が違う。同じ世界に生きているのに、ある意味別の世界を生きている。そんな私たちが平和に暮らすためには、相互理解が不可欠なのだと思う。
完全ではないとしても、少しでも相手を理解できるように努めたいものだ。
ふくきた

